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連載:『万次郎夜話』川澄哲夫(CIE評議員・慶応義塾大学元教授・文学博士)
第2回 万次郎は船中のどこにいたのか

「バーグ型の捕鯨船」川澄哲夫蔵土佐の5人の漂流民は本船に移った。143日暮らした鳥島とも雨露を凌いだ洞窟ともお別れである。
翌朝、ジョン・ハヲラン号は「檣(ほばしら)ヲ建タル如き岩(孀婦岩(そうふがん))」の辺りを乗り抜け、抹香鯨を追いかけていった。
日本漁場での抹香鯨漁は始まったばかりである。万次郎たちが救助されて10日目には、抹香鯨2頭を仕留めた。その後もジョン・ハヲラン号は、孀婦岩(そうふがん)と鳥島を中心に、抹香鯨を追い続ける。やがて長かった日本漁場での捕鯨シーズンも終わりに近づいてきた。1842年9月10日、ジョン・ハヲラン号は、進路を東南にとり、日本沖を離れた。今シーズンの日本漁場で仕留めた抹香鯨は28頭、1000バレルの抹香油の収穫であった。
11月22日、ジョン・ハヲラン号は、オアフ島のホノルルへ入港した。万次郎たちは148日間、アメリカの捕鯨船で生活したことになる。
ところで、彼らは捕鯨船内のどこに収容され、どのように暮らしていたのであろうか。「取調記録」にも「漂流記」類のどこにも記されていない。この興味深い生活の様子が。
ちなみに、捕鯨船内の鯨捕りたちの部屋は厳格に区分されている。船長と航海士たちにはキャビンが与えられ、そこは船の最後部にある。水夫たちは船首にあるフォークスル(forecastle)と呼ばれる部屋で雑居している。キャビンとフォークスルの間、どちらかといえば、船尾に近く、スティアレッジ(steerage)がある。そこは羽指(harpooner)、樽造り(cooper)、船長付給士(steward)などに割り当てられている。いわば職人部屋である。
『時規(とけい)物語』は、越中富山の長者丸の漂流の記録である。そこには、彼らがアメリカの捕鯨船に救助された直後の生活の様子が興味深く語られている。
バーグ型 アリス・ノルズ号の様子長者丸は、仙台唐丹(とうに)の港を江戸へ向かって出帆したところで、大西風に吹かれて、だんだんと沖へ流され、漂流を始める。船頭平四郎ほか、10人が乗り組んでいた。1839(天保9)年1月8日のことである。
長者丸は漂流しておよそ5ヶ月経った6月5日、生き残った7人が異国船に救助される。この船はナンタケ島(アメリカ捕鯨業の発祥の地)の捕鯨船「ゼンロッパ号」(James Loper)で、船長は「ケツカル」(Cathcart)といった。
 ゼンロッパ号に移された長者丸の漂流民たちは、「ケツカル」の部屋へ案内される。そこで浅き茶碗のようなものに、米の粥(かゆ)を半合ばかり入れて、白砂糖をかけ、匕子(さじ)1本ずつ添えてだしてくれた。この同じ食物が昼から夕方にかけて、3度でた。これでみんな、「腰のぬけたるも直り」、元気になった。
夜になると、彼らは船の艫(とも)(船尾)に連れて行かれ、「人々集まりたる処に臥(ふせ)」った。ここには「日本船にて船の胴壁と申処に棚二段三段にしつらえてあり、それへ木綿のふとん、厚さ一尺余も有之をしき、からだの埋りたるようになり候上へ、赤或は白の氈(せん)を一枚覆ひ候て臥(ふせ)り申候」と描かれている。彼らはそこは「ケツカル」の部屋辺であったと語っているから、水夫部屋ではない。
また、メルヴィルの『白鯨』には怪しげな5人の水夫たちが乗っている。船長用のボートの乗組員である。彼らは他の鯨捕りとは離れて、船長室の真下にある後部船倉(after hold)にいた。万次郎たちもこの辺(あたり)で生活していたのではなかろうか。
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