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連載:『万次郎夜話』川澄哲夫(CIE評議員・慶応義塾大学元教授・文学博士)
第3回 ‘John’の名縁起


There she blows! 潮が吹いているぞ!Johnは使徒ヨハネの英語名であり、一郎、太郎のような普通の男の子の名前でもある。

万次郎たち土佐の漂流民を救助したJohn Howland号は、共同出資者(owners)の一人John Howland Jr.の名をとってつけられた。ちなみに、当時、Johnのついた捕鯨船は32隻(A. スターバック『アメリカ捕鯨史』による)を数えた。またJ.H.号が万次郎たちを救助した航海(1839年10月31日〜1843年5月8日)では、8人のJohnが乗り降りしている。

万次郎たちは、1841年6月28日、このJ.H.号に救助される。彼らはこの小柄な少年をモンゴ(Mongo)と呼んだ。「マンジロー」が発音しにくかったからである。モンゴは救助された当初、「命をとらるるか助けらるるか」と異人恐怖症に怯えながら、民際人として生まれ変わる苦しみを味わう。

そのうちにモンゴは、新しい生活環境が自分の性格にぴったりと合っていることに気が付く。頭が良くて、度胸があり、積極的に行動するという彼の性格は、土佐の封建・門閥社会では、萎縮していたものが、捕鯨船という国際社会に入って、水を得た魚のように活き活きとしてくる。

ウィットフィールド船長もそれに気が付いて、一航海の試採用をすることにした。「鯨捕りの見習い」(boy)としてである。それには呼び易い名前が必要であった。そこで彼にヨハネ(John)という名を付けることにした。最初、船長はペテロ(Peter)という名前を思いついた。聖ペテロ島(St. Peter――当時米利堅(メリケン)の鯨捕りたちは鳥島をこのように呼んでいた。彼らが海亀を探しに行った日は、聖ペテロ祭の前日であった)で見付けたからである。ペテロもヨハネも万次郎も漁師の子である。ただ性格的にペテロ(巌(いわお))よりも、ヨハネ(雷の子――激しい性格)の方が合っていたからであろう。
The Chase (追跡)
帰国後、嘉永6年9月22日(1853年10月24日)彼は、徳川斉昭に招かれて、米利堅(メリケン)の事情を聞かれたことがあった。その時の斉昭(実際は儒学者藤田東湖)と万次郎の間に、次のような問答が交わされた。

問 其方アメリカにて名は何と申候哉
答 私はアメリカに居候節名ハチョンマンと名をもらい候チョンハ昔の器量ある人の名をとりマンは万次郎の万をとり候
「昔の器量ある人」はキリストの使徒ヨハネのことである。

フェアヘヴンではジョン・マン(John Mung)と呼ばれて健やかに育って成人する。名が二つ重なっているようであるが、マンは姓のつもりである。洗礼を受けて姓が必要になったのかもしれない。

帰国後、武士にとり立てられ、中浜万次郎となる。

1860年、咸臨丸でサンフランシスコからの帰路、ハワイに立ち寄り、デーマン牧師と再会、John Mungeroと名乗った。ウィットフィールド船長に宛てた手紙にも同じように署名している。彼は、ジョンの名を誇りに思っていたような気がする。

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